ゆかりの人物・団体 【た行】

川崎ゆかりの人物・団体の紹介

川崎市域で生まれた、育った、暮らしたなど、川崎市にゆかりのある人物を紹介しています。人物名をクリックすると、人物プロフィールや関連資料などが表示されます。

高須栄次郎 たかす えいじろう (1888-1946)

愛知県幡豆郡の出身。大正5年田島村渡田(川崎区)にきて、日木鋼管に労務などを提供する請負業を始めた。その後兄康治や弟恒次郎、銀次郎も集まってきて、そろって高須組を名乗った。関東大震災の朝鮮騒ぎでは、傘下の朝鮮人を凶手から守ったという。昭和7年からは市会議員に連続3期当選した。なお栄次郎亡き後、高須組は高須運輸、さらに日栄運輸と改称された。

高橋憲太郎 たかはし けんたろう (1901-1981)

神奈川県伊勢原の生まれ。川崎の運送店に勤めたが、大正14年トラツク1台で運送店を開いた。昭和10年他業者に呼びかけ川崎市交通事故防止協会を設立した。会長となり、交通事故防止運動に尽力。社会奉仕の功労によリ神奈川文化賞を受賞した。

高橋長滋 たかはし ちようじ (1894-1955)

中郡南秦野村(神奈川県秦野市)の生まれ。県立横浜第2中学校(県立翠嵐高校)や秦野地方の小学校に勤務したのち、昭和10年稲田第3小学校(市立稲田小)校長となる。その後市立生田小や登戸小の校長も努め、健康教育や理科教育の向上に力を注いだ。

高林直次 たかばやし なおつぐ (生没年不詳)

江戸時代前期の旗本。子母口村(高津区)・井田村(中原区)に400石の加増を受け、計700石を知行した。

滝沢常雄  たきざわ つねお (1902-1975)

長野県の出身。御幸小の代用教員をかわきりに、市域の小学校を歴任したあと、昭和22年市立古市場小の校長となり、保健体育研究校として成果を上げた。学校衛生会養護部初代会長を14年間努めた。市立大師小校長を最後に退職した。

竹内俊雄 たけうち としお (1893-1943)

神奈川県師範学校を卒業。川崎小訓導を経て、昭和8年市立渡田小校長となる。在勤中三橋喜久雄の主唱する三橋体育を導人して、体育の実践校として注自された。市立大島小校長を経て、昭和17年からは市学務課に勤務した。

田沢義章 たざわ よしあき (1693-1750)

江戸時代中朗の旗本。上菅生村(多摩区)の人で、通称源太郎といった。先祖は武田氏の家臣で、主家滅亡後、徳川氏に仕えたが、のち浪人し、3代前の義広のとき当地に土着した。若年寄大久保佐渡守常春らに推挙されて、8代吉宗時代鷹場人足掛を務めた。町奉行大岡忠相に命じられ、(蔵野新田開発の意見書を上申した。和歌を冷泉為久に学び、歌集を編んだほか、『武蔵野地名考』や『北条分限帳郡村略考』を著した。墓は多摩区の広福寺にある。田中丘隅とは縁続きである。

立川勇次郎 たちかわ ゆうじろう (1862-1925)

美濃国(岐阜県)大垣藩士清水家の次男で、同藩士立川家の養子に入る。明冶31年平開通の大帥電気鉄道の創設者となり、のち京浜電気鉄道(京浜急行)の専務に就任した。一方、電気機器の製造も手掛けたほか、相武電量会社を興して水力発電にも従事した。

田中休蔵 たなか きゅうぞう (1690-1740)

田中丘隅の長男で、享保15年遺跡を継ぐ。支配勘定に准じられ、武蔵国内で3万石を支配した。元文4年に幕府代官となリ、蔵米150俵を給された。父同様大岡忠相配下の代官であったが、在任わずか1年で没した。

田中百畝 たなか ひゃっぽ (1901-1964)

広島県の宮本家に生まれ、養子に入る。東京商科大学教員養成所(一橋大学)を卒業。教員を経て、昭和7年京浜電気鉄道に入社し、同14年に常務となる。その後東京地下鉄道専務、東京急行電鉄常務・専務、京浜百貨店取締役などを経て、昭和25年京浜急行の社長となった。京急の東急からの分離独立や川崎鶴見臨港バスの買収、平和島温泉の建設、三浦半島の開発などを手がけた。

田辺潔 たなべ きよし (1903-1933)

北海道出身。県立第1中学校中退後、横浜市電に入リ、黒色一般労働組合に参加し、のち新労農党に転じた。昭和5年富士紡績大争議では、川崎工場の煙突に赤旗を持ってよじ登り、争議解決まで130時間余も滞空して、煙突男として報じられた。その後日本労働組合全国協議会(今協)に属して活動したが、謎の死を遂げた。

田辺佐五右衛門 たなべ さごえもん (生年不詳-1853)

江戸時代後期の小田村(川崎区)名主。幼名は平次郎。天保年間に、父弥平とともに同村地先の海辺に田辺新田を開拓した。

田村文平 3代目たむら ぶんぺい (1747-1820)

江戸時代後期中野島村(多摩区)に生まれる。国定と号した。文化3年江戸の中川儀右衛門から和唐紙製法の伝授を受け、玉川堂と名乗って紙漉業を始めた。山水などを透かし入れるなどして製品の評判を得た。大田南畝も『向岡閑話』の中で称賛。墓は多摩区中野島の是法庵に。

田村文平 4代目たむら ぶんぺい (生年不詳-1838)

中野島村(多摩区)で3代文平の子として生まれる。綱藏と号した。父の跡を継ぎ、玉川唐紙の製造にあたり、その全盛期をつくった。田安家の御用紙製所を努め、天保3年には紙漉き実演で、11代将軍家斉の上覧に浴している。墓は多摩区中野島の是法庵にある。

田村元雄 たむら もとお (1718-1776)

江戸時代中期の医師で、本草家。号は藍水。我が国初の物産会所を江戸湯島に開いた。田村意次に抜擢され禄高300石の医員となり、国産人参の栽培に功を奏した。和製砂糖の製法にも成功し、その製法を大師河原村(川崎区)名主池上幸豊に伝授した。

田村義員 たむら よしかず (1844-1892)

梶ヶ谷村(高津区・宮前区)で代々名主を努めた豪農の家に生まれる。父の跡を継ぎ、明治初期には同村戸長、第5大区区長を努めた。

秩父基家 ちちぶ もといえ (生没年不詳)

平安時代後期の土豪武士。稲毛三郎重成の酋祖父秩父権守重綱の弟で、川崎冠者と呼ぱれた。『秩父系図』に「武州荏原群知行」とあるところから、河崎荘開発の主ではないかとされる。

千野徳 ちの とく (生没年不詳)

江戸時代後期の寺子屋師匠。上菅生村(多摩区)に寺子屋柳斎堂を開いた。

常三郎 つねさぶろう (生没年不詳)

江戸時代後期の木月村(中原区)名主。天保元年領主旗本森川氏の借財負担による村方の困窮を救うため、勘定奉行所へ駆込直訴を決行した。

等海 とうかい (生没年不詳)

鎌倉時代の憎侶。王禅寺村(麻生区)の星宿山王禅寺を中興した。健保2年本堂再建の用材を物色中、近くの山中で禅寺丸柿の原木を発見したという。やがてこの甘柿は近隣へ広まった。

当麻辰次郎 とうま たつじろう (1826-1905)

大師河原村(川崎区)の農家に生まれる。明治26年病害に強く、美味豊産の梨の新種を育成した。家名にちなんで長十郎と名付けた。この梨、多摩川流域だけでなく、全国にひろまった。墓は川崎区旭町の医王寺にあり、川崎大師境内には大正8年建立の「種梨遺功碑」が立つ。

遠山景則 とうやま かげのり (生年不詳-1688)

江戸時代前期の旗本。3代家光に仕え、上小田中村(中原区)などに1000石の知行地を給された。

遠山景政 とうやま かげまさ (生年不詳-1618)

江戸時代前期の旗本。後北条氏の家臣であったが、のち家康に仕え、関ヶ原・大坂の陣に従う。有馬村・馬絹村(ともに宮前区)などに500石を知行した。

遠山則英 とうやまのりふさ (生年不詳-1732)

江戸時代中期の旗本。父景則の所領の内、上小田中村(中原区)などに500石を分地された。

徳永正報 とくなが せいほう (1901-1966)

愛媛県の生まれ。大阪にきて友愛会に加盟し、労働争議にかかわった。犬正10年大阪製鎖所を解雇され上京した。総同盟京浜出張所長となり、京浜地方での総同盟系労働組合の結成に奔走した。同15年の総同盟神奈川県連合会結成にも尽力。『いばらの足跡三十年』の著書がある。

徳本 とくほん (1758-1818)

江戸時代中期の浄土宗僧侶。紀伊国(和歌山県)日高郡の出身で、天明4年に出家。諸所に草庵を結び、木食草衣・長髪姿で念仏を高唱して修行を積み、諸国をめぐってはひたすら念仏教化に励んだ。各地に特異な筆跡で刻んだ名号碑が建立されたが、市域では教安寺境内や入江崎公園(ともに川崎区)など6か所に残されている。

都倉義知 とくら よしとも (1859-1937)

梶ヶ谷村(高津区・宮前区)田村家の3男で、養子となる。馬絹村(宮前区)戸長を経て、明治22年より40数年宮前村(宮前区)村長を努め、全国町村長中の功労者として表彰された。橘樹郡(川崎市・横洪市)教育会長、同郡農会長、同郡町村会長も努めた。墓は宮前区馬絹の泉福寺に、同区役所連絡所脇には頌徳碑がある。

富永水軍 とみなが ぐんじ (生没年不詳)

江戸時代中期の治水巧者で、田中丘隅の手代を努めた。享保年間の多摩川改修工事では、丘隅に従って尽力した。途中丘隅の酒匂川治水への出向中は、職務を代行した。川崎区の稲毛神社にある享保14年寄進の手水洗鉢に、その名が刻まれている。

鳥養仁兵衛 とリかい じんべえ (生没年不詳)

近世前期の塚越村(幸区)豪農。旗本久世氏知行の川崎領の在郷目付として、領内の年貢徴収や在地支配にあたった。

鳥養彦太郎 とりかい ひこたろう (生没年不詳)

明治後期~大正期の実業家。川崎町(川崎区)で麦稈細工問屋を営んだが、明治36年頃イタリア製の麻真田の模作に成功し、同43年麻真田製造の鳥養工場を創業した。川崎町周辺の生産額は大正初期全国一を占めたが、その中心的役割を果たした。

鳥飼六右衛門 とりかい ろくえもん (生没年不詳)

江戸時代後期、塚越村(幸区)の洒造業者。屋号を新開屋といった。幸区塚越の東明寺に、酒造工程などを記した板絵を寄進している。