ゆかりの人物・団体 【か行】

川崎ゆかりの人物・団体の紹介

川崎市域で生まれた、育った、暮らしたなど、川崎市にゆかりのある人物を紹介しています。人物名をクリックすると、人物プロフィールや関連資料などが表示されます。

加賀美正光 かがみ まさみつ (1572-1628)

甲斐国(山梨県)出身の旗本。武田氏の家臣だったが、主家滅亡後流浪して高石村(麻生区)に土着。天正16年より家康に仕え、同村150石を知行される。村内法雲寺の開基。

加賀美正吉 かがみ まさよし (生年不詳-1664)

正光の嫡男。慶長16年大番に列し、大坂の陣に従った旗本。高石村(麻生区)に170石余の知行をうける。のち加増されて500石となる。

筧助兵衛 かけひ すけべえ (生没年不詳)

関東郡代伊那半十郎忠治の手代。寛永年間宿河原村(多摩区)で、多摩川からのニヶ領用水取入口である下ノ口取水堰の増設を差配した。

笠原直使主 かさはらのあたいおみ (生没年不詳)

古墳時代の武蔵国造。『日本書紀』安閑記に、同族の小杵と国造の地位を争ったとある。大和朝廷の支援をうけて国造に就任し、返礼に橘花・多氷・倉樔・横渟の四ケ所を屯倉に献上したという。

柏木治徳 かしわぎ はるのり (1883-1971)

高座郡渋谷村(神奈川県藤沢市)に生まれる。藤沢小に勤務した後、川崎小校長となって転任の笠間友作に連れられ同校の主席訓導になった。のち宮前小、川崎小の校長を務めた。その間大正13年には市の校長会会長に推挙された。退職後は郵便局、文具店などを開業。かたわら、市公平委員会初代委員長、横浜家庭裁判所調停委員、市公衆電話会会長などに力を注いだ。墓は川崎区本町の一行寺にある。

片山正義 かたやま まさよし (生年不詳-1892)

下菅生村(宮前区)の旧家の生まれ。同村戸長や学区取締、第5大区区長、地祖改正取調掛総代人などを務めたのち、明治12年に第2代橘樹郡郡長に就任した。

花鳥庵梅動 かちょうあん ばいどう (生没年不詳)

江戸時代中期の移動俳人。宝暦年間に大帥河原村(川崎区)の石観音堂に、一万句の俳諧を吟じた独吟万句詠草塚を建立した。

勝部正信 かつベ まさのぶ (生年不詳-1593)

元今川氏の家臣で、天正18年から家康に仕えた旗本。今井村(中原区)や都筑郡青砥村(横浜市緑区)などに知行地320石を給された。

加藤景親 かとう かげちか (生年不詳-1628)

江戸時代前期の旗本。天正年間から井田村(中原区)内に150石の知行地を有した。

加藤一夫 かとう かずお (1887-1951)

和歌山県生まれの詩人・評論家。明治学院神学部卒業。民衆芸術運動の先駆者として活躍し、トルストイの研究や全集刊行にも力を注いだ。昭和9年からは川崎の小杉(中原区)に移り住み、晩年は宗教運動に傾倒し、日本信仰・天皇主義を唱道した。

加藤五郎左衛門 かとう ごろうざえもん (生没年不祥)

江戸時代後期の上平間村(中原区)名主。祖先は武田氏の家臣加藤駿河守といい、代々同村名主役を務めた。

加藤梅鶯 かとう ばいおう (生没年不詳)

江戸入谷(東京都台東区)の人で、江戸時代後期の画家。名は正継といい、蕉亭、梅花園とも号した。元旗本で、天保のころ隠居して、川崎大師の門前(川崎区)に移住した。詩歌文章にも長じた画人で、梅や蕪を好んで画いたという。明治画壇の巨星田崎草雲が教えを請うている。

金森誠之 かなもり しげゆき (1892-1959)

和歌山県に生まれる。内務省に入り、東京土木出張所から多摩川改修事務所勤務へ転任した。大正10年に同所長となり、多摩川下流の河身改修や築堤工事、川崎河港水門建設などの陣頭指揮をとった。まさかり杭や金森式鉄筋煉瓦の発明者でもある。多摩川改修工事をテーマとした映画「恵まれた人々」のストーリーを書き、大師河原村(川崎区)出身の女優川崎弘子を主演に選んだ。

軽部五兵衛 かるべ ごへえ (生没年不詳)

江戸時代中期の下平間村(幸区)年寄百姓。赤穂藩浅野家の江戸屋敷に出入りして秣を納めたり、下肥を汲んだりしていたため、藩士らと知り合う。のち赤穂浪士らが身を寄せたリ、大石良雄が滞在したりしたという。墓が幸区の了源寺にある。同区下平間の称名寺には浪士らの遺品と称するものが保存されている。

河合平蔵 かわい へいぞう (1838-1898)

五反田村(多摩区)に生まれ、慶応元年同村で医業を開いた。戸長などを歴任し、橘樹郡(川崎市・横浜市)自由民権運動の指導者の一人として、武蔵六郡懇親会や橘樹郡親睦会結成などに尽力した。明治22年には生田村(多摩区)初代村長に就任した。墓は多摩区長沢の盛源寺にある。

川勝重氏 かわかつ しげうじ (生年不詳-1653)

江戸時代前期の旗本で、馬絹村(宮前区)などに700石の知行地を給された。

川崎平右衛門 かわさき へいえもん (1694-1767)

多摩郡押立村(東京都府中市)の名主家に生まれ、定孝という。天保改革の時、幕府役人に登用された。新田世話役として、池上幸豊の大師河原村(川崎区)での新田開発を助成した。また橘樹郡・都筑郡(ともに川崎市・横浜市)の幕領代官のほか、勘定吟味役や諸国銀山奉行なども務めた。墓は東京都府中市押立町の竜光寺に。田中丘隅とは縁戚関係にある。

川島照三 かわしま てるぞう (1893-1966)

青森県生まれで、青森県師範学校の卒業。山形県酒田商業学校教諭から昭和16年に川崎市立工業学校教諭へ。同23年市立御幸中学校校長となり、退職まで同市校長会副会長、技術科会長などを務めた。恵まれない子を育英する川島基金を設けた。

神田正高 かんだ まさたか (生年不詳-1619)

元後北条氏の家臣で、天正19年から家康に仕えた旗本。木月村(中原区)内に300石を知行した。

岸敬二郎 きし けいじろう (1869-1927)

和歌山県出身。東京帝大工科大学卒業後、芝浦製作所(東芝)に入社。電気技術者として数々の発明、特許、開発を手掛け、同社の技術部長、常務取締役を務めた。震災で打撃を受けた同社の再建に尽力、鶴見埋立地に新工場を建設して工場長となり、その後の東芝発展の技術的基礎を築いた。

木島栄次郎 きじま えいじろう (1903-1969)

橘村千年(高津区)の旧家に生まれる。昭和11年市会議員に当選し、以後連続5期務めた。その間市会議長にも就任した。墓は高津区千年の能満寺にある。

岸本吉右衛門 きしもと きちえもん (1858-1924)

鉄商の家に生まれる。今泉嘉一郎と旧知の関係で日本鋼管創立の発起人となった。銑鉄輪入を通して原料面での基礎を築き、明治45年に同社取締役に就任した。子の吉左衛門と父子二代にわたり、同社発展に寄与した。

杵屋栄蔵 きねや えいぞう (1888-1967)

川崎町(川崎区)の生まれ。本名は小田栄次郎。少年時代から長唄の名門・五世杵屋勘五郎に師事した。芸を見込まれ、六世芳村伊十郎の養子に。明治39年、19歳で三世杵屋栄蔵を襲名した。戦前戦後にわたる劇場三味線の第一人者となり、長唄界の最高峰を築いた。芸術院会員。菩提寺である川崎区本町の一行寺に、法然上人像を寄進した。

木村重友 きむら しげとも (1882-1939)

川崎町砂子(川崎区)で生まれ育ち、大正から昭和初期に活躍した浪曲師。民権家岩田道之助の長男で、本名は甫。27才で木村重勝の門に入りたちまち頭角を現し、妻の名手・友香の撥さばきに支えられて大看板となった。多くの弟子も養成。墓は横浜市鶴見区の最願寺にある。

九左衛門 きゅうざえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の古川村(幸区)名主で、姓は石井。先祖は北条氏政側室の男子という。

吉良頼康 きら よりやす (生年不詳-1561)

戦国時代、世田谷城主吉良成高の子に生まれる。のち久良岐郡蒔田(横浜市南区)に移リ、蒔田殿といわれた。天文19年、曾祖父頼高の菩提寺泉沢寺を橘樹郡上小田中(中原区)に移転して再興、門前に市場を奨励した。夫人は北条氏綱の娘。

工藤雄弘 くどう ゆうこう (1887-1967)

群馬県磐戸村(甘楽郡南牧村)の養蚕農家の生まれ。大正13年川崎信用組合の書記になり、のち同組合長を経て川崎市信用金庫初代理事長に就任し、かわしん発展の基礎を築いた。県信用金庫協会長や全国信用金庫協会長も務め、金融業発展に尽力した。

粂七 くめしち (生没年不詳)

大師河原村(川崎区)の百姓。文政4年川崎宿久根崎町(川崎区)の医王寺の鐘を打ち鳴らし、溝口用水騒動のきっかけをつくった。

椋椅部刀自売 くらはしべのとじめ (生没年不祥)

奈良時代、荏原郡(川崎市・東京都大田区)の農夫物部歳徳の妻。万葉歌に「くさまくら旅ゆく夫なが丸寝せば家なる吾は紐解かずねむ」を残す。

椋椅部弟女 くらはしべのおとめ (生没年不詳)

奈良時代、橘樹郡(川崎市・横浜市)の農夫物部真根の妻。「くさまくら旅の丸寝の紐絶へば吾手と付けろこれの針持し」の万葉歌を残す。

倉橋政範 くらはし まさのり (生年不詳-1613)

江戸時代前期の旗本。天正19年から南加瀬村(幸区)や井田村(中原区)などに1000石の知行地を有した。

黒川隆信 くろかわ たかのぶ (生没年不詳)

大正10年川崎町堀之内(川崎市)に建設された川崎社会館(はじめ川崎匡済館)の初代館長に就任した。

小泉次大夫 こいずみ じだゆう (1539-1623)

小泉吉明 こいずみ よしあき (1578-1615)

小泉次大夫吉次の長男で、荏原郡下袋村(東京都大田区)の陣屋に居住した。稲毛川崎の代官職を世襲。元和元年の大坂夏の陣に参陣したが、出征先で病死した。

小泉吉勝 こいずみ よしかつ (1596-1629)

小泉次大夫吉次の養子。後妻の甥にあたり、新見勘九郎といった。秀忠に仕え、御小姓組に列した。大坂両度の陣に出征し、元和6年稲毛川崎の代官職を受け継いだ。

小泉利左衛門 こいずみ りざえもん (1765-1849)

江戸時代後期の登戸村(多摩区)の人。村人の協力を得て、村内に33の石橋を架設した。自家山林を売却して架橋した二ヶ領用水榎戸の石橋で褒賞され、苗字を許された。

孝岳 こうがく (生年不詳-1736)

江戸時代中期の江戸麻布(東京都港区)天真寺の僧侶。享保年間に下菅生村(宮前区)続きの長尾村持添地(宮前区)を買い取って開墾、天真寺新田を開いた。開墾地の周辺に松樹を植えたとき、1株ごとに般若経1巻ずつを読誦したと伝えられる。

河野通利 こうの みちとし (生年不詳-1631)

江戸時代前期の旗本。元和元年ころから登戸村(多摩区)に320石、計600石の知行地を給された。文禄の役や関ヶ原合戦、大坂両度の陣などに参陣した。

小黒伝八 こぐろ でんばち (生没年不群)

江戸時代後期の諏訪河原村(高津区)の豪農。祖先は後北条氏の家臣諏訪左近頼久といい、当村を開発した。

小島六郎左衛門 こじま ろくろうざえもん (生没年不詳)

江戸時代前期の稲荷新田村(川崎区)の開発農民。大師河原地先の寄州を、叔父の石渡四郎兵衛とともに開拓した。のち同家は池上家の七稲荷(七左衛門組)に対して、六稲荷(六郎左衛門組)の名主を代々務めた。

小林作太郎 こばやし さくたろう (1869-1937)

長崎県長崎市の出身。明治18年三菱造船所に入社。仕事の合間に米国人技師から機械工学を学ぶ。同32年芝浦製作所(東芝)発足とともに工場取締役に抜擢された。同社製造部長や常務取締役などを務め、人材育成や電機工業発展に尽力した。

小林三左衛門 こばやし さんざえもん (1851-1931)

小杉村(中原区)に生まれる。質商ののち、呉服商に転業。公職では戸長、村役場書記、中原村(中原区)村会議員、同助役を経て、村長に選任された。

小林英男 こばやし ひでお (1902-1988)

中原村小杉(中原区)の旧家の生まれ。村長を務めた三左衛門は祖父。中原町(中原区)助役や町会議員を経て、川崎市役所に人る。中原支所長を務め、戦後は市会議員にも当選した。若い頃に青年団運動で活躍、晩年には郷土史研究や文化運動などに携わり、ニヶ領用水再生を考える会会長も務めた。

小林正吉 こばやし まさきち (生年不詳-1661)

江戸時代前期の旗本で、大番に列する。下小田中村(中原区> 内に100石など、計450石を知行した。寛永21年には下小田中村を検地した。

駒井勝重 こまい かつしげ (生年不詳-1656)

江戸時代前期の旗本で、明津村(高津区)や都築郡新羽村(横浜市港北区)などに530石を知行した。大坂両度の陣に従った。

駒井勝茂 こまい かつしげ (生年不詳-1666)

江戸時代前期の旗本で勝重の弟。明津村(高津区)などの兄知行地の内200石を分知された。

駒井親直 こまい ちかなお (生年不詳-1668)

江戸時代前期の旗木で、黒川村(麻生区)や上・下川井村(横浜市旭区)などに300石、計1800石を知行した。

小宮数右衛門 こみや かずえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の今井村名主(中原区)。先祖は秩父重忠の一族小宮筑後守重康で、後北条氏の家臣という。

小宮徳造 こみや とくぞう (1888-1966)

川崎町(川崎区)の旧家小宮一族の出で、従兄弟の小宮隆太郎と合名会社小宮呉服店を創立した。昭和8年同社の社長を引き継ぎ、京浜デパートの進出に対抗して、のちの小美屋(こみや)デパートへ発展させた。

小宮山新一 こみやま しんいち (1905-1967)

長野県に生まれる。東京帝大医学部を卒業後、青森県で農民の診療活動に従事。昭和13年労働科学研究所に入り、農村衛生の調査や改善に尽くす。また、保健婦の養成などに当たる。戦後は川崎市の保健所に赴任し、地区保健活動を展開した。同28年新設の高津保健所所長となり、公衆衛生の向上に寄与した。

小宮隆太郎 初代こみや りゅうたろう (1840-1911)

川崎宿小土呂(川崎区)の大旅籠の長男に生まれる。鉄道開通をひかえた明治4年、いち早く呉服商(のち小美屋デパートに発展)に転業。娘婿の小宮順造に分家させて川崎町新宿(川崎区)にも分店を出した。呉服代がわリに土地をもらうなどして、大地主になる。

小宮隆太郎 2代こみや りゅうたろう (1870-1933)

川崎宿小土呂(川崎区)の呉服商初代隆太郎の長男。幼名は林之助。家業をうけ継ぎ、従兄弟の小宮徳造らと合名会社・小宮呉服店を創立し、昭和2年には本・分店あわせたデパー卜を開業した。なお、大正元年には川崎町(川崎区)町長に就任し、工場招致に尽力した。ほかに営業税調査委員、橘樹郡(川崎市・横浜市)郡会議長、川崎町会議員なども歴任。大正14年設立の市実業連合会初代会頭に推挙され、昭和8年には市商工協会会長に就任した。