浅野総一郎(川崎ゆかりの人物)

浅野総一郎(あさの そういちろう)

浅野総一郎

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
(https://www.ndl.go.jp/portrait/外部リンク)

生没年

1848(嘉永元)年-1930(昭和5)年

プロフィール

 明治から昭和前期にかけての実業家。越中国水見郡藪田村(富山県氷見市)の医者の子に生まれる。23歳で上京し、砂糖水売り、竹皮の仕入れ販売、石炭・コークス販売などを転々とする。官営の深川セメントエ場の払下げを得て実業家として出発。渋沢栄一の知遇を得て、炭鉱・海運・ガス・石油などの諸事業を手がけ、48歳のとき東洋汽船を創立した。大正2年から鶴見~川崎臨海地での埋立て(※)造成に着手し、京浜工業地帯の基盤を作った。浅野財閥の創始者となった。財閥の主要傘下会社には、前述の東洋汽船のほか、浅野セメント、日本鋼管、鶴見製鉄造船などがあった。

 墓は横浜市鶴見区の総持寺にあり、神奈川区子安台の浅野学園校庭には銅像が立つ。また、現在の川崎区浅野町の地名の由来となっている。
※川崎市域では、現在の川崎区南渡田町、白石町、大川町、扇町、竹之下の埋め立てを行った。

主な参考文献・著作等

(掲載日:2023年10月1日)