佐藤惣之助(川崎ゆかりの人物)

佐藤惣之助(さとう そうのすけ)

satousounosuke

惣之助37歳のとき(川崎市市民ミュージアム提供)

生没年

1890(明治23)年ー1942(昭和17)年

プロフィール

大正・昭和時代前期の詩人。1890(明治23)年12月3日、神奈川県橘樹郡川崎町砂子(現在の川崎区砂子)で雑貨商の次男に生まれた。4歳で釣りを覚え、百人一首の上下の句、作者名全てを暗記したといわれる。12歳頃から俳句に親しみ、劇作・小説家を志し、のち詩人となった。13歳で川崎小学校尋常科を優等で卒業、高等科1年に進学。父の意思で3年間糸商の商業見習いをしたが、性に合わず16歳で川崎に帰ってきた。17歳で東京の暁星中学附属仏語専修科に学び、文学に傾倒した。
1916(大正5)年、26歳で第1詩集『正義の兜』を自費出版して以降、詩人として活躍した。40歳の1930(昭和5)年、川崎市の委嘱を受け、「川崎小唄」「川崎音頭」を作詞。「赤城の子守歌」などを大ヒットさせ、人気作詞家となった。阪神タイガースの球団歌、通称「六甲颪(おろし)」は、惣之助がレコード会社を通じた球団からの依頼により1936(昭和11)年に作詞したもので、古関裕而が作曲した。1940(昭和15)年にはコロムビアの専属作詞家となった。
1942(昭和17)年5月11日、義兄である萩原朔太郎の死去に遭い、葬儀委員長として奔走し、心身疲労する。5月15日、レコード会社よりの帰途、脳内出血にて倒れ51歳で死去。墓は幸区紺屋町の正教寺にある。

主な参考文献・著作等

多彩な惣之助展ー佐藤惣之助生誕百年記念ー(入谷清久/監修 川崎市市民ミュージアム/編集・発行 1990年)
川崎に佐藤惣之助といふ人がいたー佐藤惣之助クローズアップ2003の記録ー(東海道川崎宿2023/編集 地域総合研究所/協力 川崎区役所地域振興課/発行 2004年)
佐藤惣之助詩華集(アンソロジー)-全詩集より収載ー(佐藤惣之助/著 詩の家/編・発行 1991年)
佐藤惣之助案内ー佐藤惣之助掌事典ー(藤田三郎/著 詩の家/発行 1974年)

(掲載日:2023年10月31日)