ゆかりの人物 【な行】
川崎ゆかりの人物の紹介
川崎市域で生まれた、育った、暮らしたなど、川崎市にゆかりのある人物を紹介しています。人物名をクリックすると、人物プロフィールや関連資料などが表示されます。
な
内藤勘七 ないとう かんしち (生没年不詳)
江戸時代後期の下小田中村(中原区)名主。先祖は内藤豊前の弟内匠之助といい、吉良家の家臣であったという。
内藤忠政 ないとう ただまさ (生年不詳-1611)
江戸時代前期の旗本で、家康に仕えた。市之坪村(中原区)などに知行地1000石を給された。
内藤直政 ないとう なおまさ (生年不詳-1635)
江戸時代前期の旗本で、秀忠に仕えた。木月村(中原区)などに250石を知行した。
長尾赤城 ながお せきじょう (1768-1842)
*→井田赤城を参照
中川儀右衛門 なかがわ ぎえもん (1763-1830)
山城国(京都府)の生まれ。文化3年和唐紙の試漉を許され、翌年和製唐紙漉屋仲間を結成して、自ら元締めとなった。多摩川の水質などに着目して、中野島村(多摩区)の玉川堂田村文平に製法を伝授した。和製唐紙売弘所の看板を掲げ、屋号を山城屋と称して和唐紙の販売も手がけた。墓は東京都世田谷区の専光寺にあり、浅草待乳山(東京都台東区)に和唐紙製祖の碑が立つ。
中川三郎 なかがわ さぶろう (1899-1958)
鹿児島県生まれ。市内の小学校教員勤務のかたわら、歯科医師の免許を取り、昭和15年歯科医院を開業した。学校歯科医師を努めるなど市学校保険教育に貢献し、戦後は最初の公選教育委員に当選した。
中川重清 なかがわ しげきよ (生年不詳-1631)
江戸時代前期の旗本で、家康に仕えた。小田原攻めや関ヶ原戦に従った。新城村(中原区)などに900石を知行した。中原区新城の又玄寺の中興開基でもある。
長坂一正 ながさか かずまさ (1582-1647)
江戸時代前期の旗本。久本村(高津区)・土橋村(宮前区)などに1000石の知行地を宛行われた。
中島敏三 なかじま としぞう (1911-1975)
川崎生まれのブラジル海外移住者。日本高等拓殖学校卒業。昭和6年アマゾニア産業研究所に入所し、翌年マナオスにある米人経営の牧場に転職した。3年後に独立し、野菜・ジュートなど農楊を経営した。アマゾニア日本人会長となり、昭和46年には県知事から移民功労者として招聘された。
中田義算 なかだ よしかず (1880-1951)
山梨県生まれ。東京帝大工科大学卒業。釜石鉱山などに勤務したのち、昭和9年日本鋼管に入社。同社の高炉三基を完成して銑鋼一貫体制の基盤をつくり、トーマス製鋼法の確立に寄与した。のち扇町工場長、取締役などを歴任した。東京帝大講師も兼務。『製鉄』の著作もある。
中根正朝 なかね まさとも (1617-1696)
旗本中根正盛の長男。通称は平十郎。父の跡目の内、弟正章に1000石を分地し、自らは菅村・登戸村(いずれも多摩区)などで計4000石を知行した。菅村の玉林寺観音堂や法泉寺に「除地永免許覚」を与え、登戸村の長念寺や善立寺にも同様な安堵状を発している。
中根正盛 なかね まさもり (生年不詳-1665)
江戸時代前期の旗本。壱岐守、通称平十郎。三代家光に仕え、菅村・登戸村(いずれも多摩区)などに計5000石の知行地を宛行われた。夫人が熱心な真宗門徒で、登戸村の長念寺を中興した。没後、「秀月禅尼画像」が、子息正朝によって同寺に寄進された。
中道等 なかみち ひとし (1892-1968)
宮城県生まれ。青森県立八戸中学校を中退し、独学で歴史・考古・民俗学を修め、柳田国男、渋沢敬三らの知遇を受けた。青森県史編纂に従事。昭和10年から川崎市史編纂嘱託となり取り組むが、「通史編」と「産業編(徳川時代)」の2巻のみ刊行して中断した。のち横浜市市民博物館長や郷土研究誌『郷土神奈川』編集委員などに迎えられた。
中村博見 なかむら ひろみ (1887-1963)
大師河原村(川崎区)の若宮八幡社宮司の家に生まれる。明治40年家職を継ぎ、近郷十数社の社掌も兼務した。戦後創立の県神社庁の参与に推挙され、県宗教連盟理事に就任した。川崎市選挙粛正委員、司法保護委員なども務め、地域社会に貢献した。
中村正義 なかむら まさよし (1924-1977)
成川平五郎 なりかわ へいごろう (生没年不詳)
下平間村(幸区)で代々名主役を務めた旧家に生まれる。父重兵衛が醤油醸造で築いた資産を投じて、開港直後の横浜に出店し、「平間屋平五郎」の看板を掲げて、生糸・石炭・苧麻・木材など各種商品を取引した。ほかに艀運送、人足請負・水茶屋なども手がけた。しかし、1代で全資産を失う、「冒険投機商」で終わった。
に
西川伊右衛門 にしかわ いえもん
タテカワ講の行者として川崎宿を中心に活躍した人物で、満翁徳行(生年不詳‐1833)、明山徳行(生年不詳‐1869)の二人がこの名前を名乗っている。
満翁徳行は堀之内村(現在の川崎区)の人で、川崎宿や堀之内村を中心に、タテカワ講という富士登拝の富士講を組織しその大先達となった。枝講は隣接の諸村にも広まった。
満翁徳行の後を継いだ明山徳行は、天保2年に伯家神道を受け継ぐ白川家に入門。天保12年には立烏帽子・布斎服を許されたことが『白川家門人帳』に記されている。
川崎区本町の一行寺には満翁徳行の墓が、同区宮本町の稲毛神社にはタテカワ講が建立した富士講碑がある。
日純 にちじゅん (生没年不詳)
近世初期の僧侶。安房国(千葉県)妙本寺住職日珍の弟子。小泉次大夫の招きにより、小杉村(中原区)妙泉寺の住職となった。
仁藤玉濤 にとう ぎょくとう (生没年不詳)
江戸時代後期の寺子屋師匠。文久年間南加瀬村(幸区)で寺子屋静海堂を開いた。
ね
根本助右衛門 ねもと すけえもん (1857-1922)
川崎宿砂子(川崎区)で代々名主を務めた旧家に生まれる。明治22年の町村制施行による初代町長に就任。さらに同34年から43年まで、3期町長を重任した。
の
野崎伝三郎 のざき でんざぶろう (生没年不詳)
江戸時代後期の寺子屋師匠。天保年間小向村(幸区)に寺子屋を開いた。
野村文左衛門 のむら ぶんざえもん (生年不詳-1791)
上丸子村(中原区)の農家の生まれ。多摩川丸子の渡し近くで、干鰯肥料商を手広く商った。私財を投じて近在の溝渠に多数の石橋を架設して、人々から808橋の建造者といわれた。東京都目黒区の祐天寺に頌徳供養碑がある。