ゆかりの人物 【や・わ行】

川崎ゆかりの人物の紹介

川崎市域で生まれた、育った、暮らしたなど、川崎市にゆかりのある人物を紹介しています。人物名をクリックすると、人物プロフィールや関連資料などが表示されます。

柳下太一郎 やぎした たいちろう (生没年不詳)

江戸時代後期の寺子屋師匠。弘化3年井田村(中原区)で寺子屋柳下塾を開いた。息子太兵衛も引き継いだ。

山田泰造 やまだ たいぞう (1843-1917)

渡田村(川崎区)の田口家に生まれ、横浜の山田家に養子に人る。代言人となり、福島事件・加波山事件・大阪事件などの弁護人を努めた。再興自由党・立憲自由党の幹部として活躍し、神奈川2区から衆議院議員に連続5期当選した。墓は川崎区渡田の成就院田口家墓所にある。

山田平七 やまだ へいしち (1725-1766)

江戸時代中期の平村(宮前区)名主で、准西国三三か所巡礼札所の創始者。先祖は後北条氏家臣片山弥兵衛の末孫という。宝暦7年西国三三か所観音巡礼に出立し、帰国後東国に33観音札所を設ける願を立てた。同13年橘樹郡稲毛領内(川崎市)に三三か寺を選定して札所とし、明和元年「准西国三三か所惣縁起」を刊行した。

山本孫義 やまもと まごよし (1898-1966)

千葉県保田の生まれ。神奈川県師範学校卒業。横浜・川崎の小学校の教員を歴任ののち、昭和19年から宮前国民学校長・同28年から市立向小学校校長を努めた。大島小学校の再建や東大島小学校の新設などに尽力した。

勇蔵 ゆうぞう (生没年不詳)

江戸時代後期の菅村(多摩区)百姓。文化3年和製唐紙漉屋仲間に加入し、農間余業に和製唐紙漉きを始めた。このとき和製唐紙の創始者中川儀右衛門から免許証文と鑑札を受けている。大田南畝の『調布日記』や『玉川砂利』に名前が登場する。

横山大寿 よこやま たいじゅ (1881-1932)

稲荷新田村(川崎区)のハリ・キュウ師の長男に生まれ、名は新太郎。美校出身で、おもに山水を画いた。同郷の誼みから東京の鈴木喜三郎邸に一室をあてがわれ、画作に励んだ。いずれの画壇にも属さず、入選の機会を果たせぬうちに逝去した。

横山忠左衛門 よこやま ちゅうざえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の上菅生村(多摩区)名主。世襲名主で、先租は式部少輔弘成で、後北条氏の家臣だったという。

吉沢寅之助 よしざわ とらのすけ (生没年不詳)

大島村(川崎区)の生まれ。明治期の篤農家で、桃の一品種伝桃の発見者である。明治29年苦心の末発見し、父伝十郎の一字を冠して命名し、一時期全国に並及した。大島八幡神社に伝桃の記念碑が立つ。墓は川崎区の医王寺別院の了延庵にある。

吉沢兵右衛門 よしざわ へいえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の高石村(麻生区)名主。祖先は代々自地の郷士という。

吉沢勇次郎 よしざわ ゆうじろう (1875-1938)

登戸村(多摩区)の紙漉きを副業とする農家に生まれる。土佐で紙漉きの技術を修得し、明治35年登戸に吉沢製紙工場を設立して、桜花紙を製造した。大正12年同業社と共同で設立の玉川製紙産業組合の組合長となった。

和田翁助 わだ おうすけ (生没年不詳)

江戸時代後期の上野川村(宮前区)影向寺領の名主。鎌倉武士和田義盛の子孫という。