ゆかりの人物 【ま行】

川崎ゆかりの人物の紹介

川崎市域で生まれた、育った、暮らしたなど、川崎市にゆかりのある人物を紹介しています。人物名をクリックすると、人物プロフィールや関連資料などが表示されます。

松井省吾 まつい しょうご (1905-1975)

中郡城島村(神奈川県平塚市)出身。神奈川県師範学校卒業。三浦郡下や川崎市内の小学校訓導を経て、菅国民学校長など市内小学校長を歴任した。その間、市小学校音楽教育研究会長、図書館教育研究会長、市及び県教育研究会長などを務めた。

松尾豊材 まつお ほうざい (1845-没年不詳)

磐城国棚倉藩(福島県)の下級武士の家に生まれる。明治11年橘樹郡(川崎市・横浜市)初代の郡長に任命され、民権政社橘樹郡親睦会の会主に推された。同33年にも神奈川県愛甲郡長から再度橘樹郡長に任命された。『棚倉藩政回顧録』を残す。

松島喜市郎 まつしま きいちろう (1879-1949)

官営製鉄所に在職して、大正2年日本鋼管に入社した。製鉄部門の技術開発に当たり、電気製鉄所長などを経て、取締役へ進んだ。今泉嘉一郎に協力して、昭和13年に川崎工場で東洋初のトーマス転炉法を実現した。『トーマス製鋼法』の編著がある。

松波重宗 まつなみ しげむね (生年不詳-1659)

江戸時代前期の旗本で、3代家光に仕えた。末長村・清沢村(高津区)400石を知行した。

松村長為 まつむら ながため (生没年不詳)

江戸時代後期の幕府代官。忠四郎ともいった。慶応2~4年ころ、橘樹郡・久良岐郡(ともに川崎市・横浜市)下の幕領を支配した。明治元年武蔵県知事に任命されて、内10万石余を支配した。

松本恒之助 まつもと つねのすけ (1848-1932)

清沢村(高津区)で医を業とした松本家に生まれた。薩摩藩医成田恒斎に漢・蘭の折衷医学を学び、慶応2年に家業を継いだ。その前年、父常次郎が開いた寺子屋達観堂も受け継ぎ、地域の子女らの教育に尽力した。

間宮正重 まみや まさしげ (生没年不詳)

江戸時代前期の旗本。後北条氏の家臣だったが、のち家康に仕えた。小田村(川崎区)の内100石を知行した。のち加増され、300石取りとなる。

万年半七 まんねん はんしち (生年不詳-1889)

川崎宿(川崎区)の旅籠屋万年に生まれる。姓は佐藤で、半七は世襲名。先祖が農間渡世の茶店から名物奈良茶飯で当てて、料亭・旅籠に発展させた店万年を受け継いだ。明治始め保土ヶ谷宿の問屋苅部家から婿養子金右衛門を迎えて、隠居した。墓は川崎区砂子の大徳寺にある。

水野近信 みずの ちかのぶ (生年不詳-1602)

江戸時代前期の旗本。はじめ織田信長に属し、家康関東入国のとき、岡上村(麻生区)などに知行地500石を宛行われた。

三田菅子 みた すがこ (1786-1818)

上作延村(高津区)の名主三田家の娘。幼少から書画・和歌を学ぶ。近江国(滋賀県)の歌人大寂庵立綱に師事し、歌集『竹芝の露』・『詠草』などを浅した。文化3年江戸本芝町(東京都港区)の与力の家に嫁いだが、1男をもうけて夭逝した。

三井吉正 みつい よしまさ (生年不詳-1625)

江戸時代前期の旗本で、家康に仕えた。上麻生村(麻生区)などに、1500石の知行地を給された。

三森浜吉 みつもり はまきち (1882-1960)

山梨県の生まれ。東京帝大哲学科を卒業し、秋田・群馬・山形各県の中学校教諭を歴任した。県立厚木中学校長から、昭和2年創立された県立川崎中学校(現県立川崎高校)初代校長として赴任した。正義・勤勉・親切を教育目標に、家族主義的な生活指導を行った。

箕輪亥作 みのわ いさく (1888-1929)

生田村細山(麻生区)の生まれ。父政次郎が創設した座繰機製造の細王舎を受け継ぎ、各種の農機具製造工場に発展させた。とくに、大正10年発明の足踏み脱穀機は全国に普及した。墓と胸像が麻生区細山の香林寺にある。

箕輪政次郎 みのわ まさじろう (1859-1913)

細山村(麻生区)に生まれる。明治22年生田村高石(麻生区)に細王舎を創立し、座繰機など農機具の製造を始めた。のち東京市浅草清島町(東京都台東区)にも第2工場を設けた。亥作の父。

三宅正勝 みやけ まさかつ (生年不詳-1664)

江戸時代前期の旗本で、2代秀忠に仕えた。木月村(中原区)などに500石を知行した。

村上信清 むらかみ のぶきよ (生年不詳-1626)

江戸時代前期の旗本で、家康に仕えた。長尾村・上・下作延村(多摩区・ 宮前区・ 高津区)に200石加増され、計500石を知行した。

村田三右衛門 むらた さんえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の寺子屋師匠。天保元年溝の口村(高津区)で寺子屋以誠堂を開いた。

物部歳徳 もののベのとしのり (生没年不詳)

奈良時代の荏原郡(川崎市・東京都大田区)農夫。防人に出向くときの歌「しらたまを手に取りもしてみるのすもいへなる妹をまたみてもやも」を、万葉集に残した。

物部真根 もののべのまね (生没年不詳)

奈良時代の橘樹郡(川崎市・横浜市)農夫。防人に出るとき、万葉歌に「家ろには葦火たけども住み好けを筑紫にいたりて恋しけもはも」と詠じた。

森五郎作 もり ごろさく (生年不詳-1909)

川崎宿久根崎(川崎区)に生まれ、最後の宿場役人を務めた。砂糖商藤屋を経営し、民権家としても活躍した。明治3年に建立した子の神社小祠が稲毛神社に残る。

森田通定 もりた みちさだ (1698-1765)

多摩郡羽村(東京都羽村市)の人。通称十郎右衛門。田中丘隅の手代で、甥にあたる。丘隅の下で多摩川や酒匂川の治水・用水の土木工事に従事した。甲州流治水技術を継承し、関東流や紀州流の工法を加味した独自の多摩川流ともいうべき治水工法を大成し、『治水要弁』に著した。墓は東京都羽村市の一峰院にある。

森綱蔵 もり つなぞう (生没年不詳)

江戸時代後期の寺子屋師匠。天保年間、宿河原村(多摩区)に寺子屋を開いた。