ゆかりの人物・団体 【や・わ行】

川崎ゆかりの人物・団体の紹介

川崎市域で生まれた、育った、暮らしたなど、川崎市にゆかりのある人物を紹介しています。人物名をクリックすると、人物プロフィールや関連資料などが表示されます。

柳下太一郎 やぎした たいちろう (生没年不詳)

江戸時代後期の寺子屋師匠。弘化3年井田村(中原区)で寺子屋柳下塾を開いた。息子太兵衛も引き継いだ。

矢島七蔵 やじま しちぞう (1871-1962)

上平間村(中原区)の生まれ。御幸村(幸区・中原区)村会議員、村助役を経て御幸村村長となる。市制実現では村を挙げて合併に奔走した。のち市収入役臨時代埋、市農会長などを努め、市会議員にも選出され、市会第5代議長に就任した。墓は中原区上平間の法田寺にある。

山口喜三郎 やまぐち きさぶろう (1874-1947)

東京芝七間町(東京都港区)に生まれる。古河鉱業に入社後、米国に留学。のち東京電気社長、芝浦製作所会長となり、両社の合併を実現して東京芝浦電気(東芝)初代社長・会長に就任した。主工場を川崎堀川町(幸区)におき、一大総合電気企業に育てた。

山口八十八 やまぐち やそはち (1874-1963)

栃木県の農家岡部家の次男に生まれる。幼名清吉。横浜で食科品の輸入販売商を開き、23歳のとき山口寅吉の養子となり、八十八を襲名した。食品製造にも進出し、やがて臓器薬の研究を手がけた。昭和3年帝国臓器薬研究所を南河原(幸区大宮町)に設立し、ホルモン剤生産に乗り出した。戦後帝国臓器製薬会社に改組して、初代社長・会長に就任した。美術品収集家としても著名。

山田泰造 やまだ たいぞう (1843-1917)

渡田村(川崎区)の田口家に生まれ、横浜の山田家に養子に人る。代言人となり、福島事件・加波山事件・大阪事件などの弁護人を努めた。再興自由党・立憲自由党の幹部として活躍し、神奈川2区から衆議院議員に連続5期当選した。墓は川崎区渡田の成就院田口家墓所にある。

山田平七 やまだ へいしち (1725-1766)

江戸時代中期の平村(宮前区)名主で、准西国三三か所巡礼札所の創始者。先祖は後北条氏家臣片山弥兵衛の末孫という。宝暦7年西国三三か所観音巡礼に出立し、帰国後東国に33観音札所を設ける願を立てた。同13年橘樹郡稲毛領内(川崎市)に三三か寺を選定して札所とし、明和元年「准西国三三か所惣縁起」を刊行した。

山本孫義 やまもと まごよし (1898-1966)

千葉県保田の生まれ。神奈川県師範学校卒業。横浜・川崎の小学校の教員を歴任ののち、昭和19年から宮前国民学校長・同28年から市立向小学校校長を努めた。大島小学校の再建や東大島小学校の新設などに尽力した。

勇蔵 ゆうぞう (生没年不詳)

江戸時代後期の菅村(多摩区)百姓。文化3年和製唐紙漉屋仲間に加入し、農間余業に和製唐紙漉きを始めた。このとき和製唐紙の創始者中川儀右衛門から免許証文と鑑札を受けている。大田南畝の『調布日記』や『玉川砂利』に名前が登場する。

横山助成 よこやま すけなり (1884-1963)

秋田県の生まれ。東京帝大卒業後、内務省に入る。山梨・大阪.大分各県の官吏を歴任して、大正12年岡山県知平となる。石川・広島・京都の府県知事などを努めた後、昭和7年神奈川県知事に就任した。在任中、京浜工業地帯の急膨張と労働争議の頻発、日吉村合併問題の紛糾、市塵芥焼却場敷地買収をめぐる疑獄事件などに遭遇した。東京府知事に転出し、警視総監、貴族院議員、広島県知事などを歴任した。

横山大寿 よこやま たいじゅ (1881-1932)

稲荷新田村(川崎区)のハリ・キュウ師の長男に生まれ、名は新太郎。美校出身で、おもに山水を画いた。同郷の誼みから東京の鈴木喜三郎邸に一室をあてがわれ、画作に励んだ。いずれの画壇にも属さず、入選の機会を果たせぬうちに逝去した。

横山忠左衛門 よこやま ちゅうざえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の上菅生村(多摩区)名主。世襲名主で、先租は式部少輔弘成で、後北条氏の家臣だったという。

吉沢寅之助 よしざわ とらのすけ (生没年不詳)

大島村(川崎区)の生まれ。明治期の篤農家で、桃の一品種伝桃の発見者である。明治29年苦心の末発見し、父伝十郎の一字を冠して命名し、一時期全国に並及した。大島八幡神社に伝桃の記念碑が立つ。墓は川崎区の医王寺別院の了延庵にある。

吉沢 兵右衛門 よしざわ へいえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の高石村(麻生区)名主。祖先は代々自地の郷士という。

吉沢勇次郎 よしざわ ゆうじろう (1875-1938)

登戸村(多摩区)の紙漉きを副業とする農家に生まれる。土佐で紙漉きの技術を修得し、明治35年登戸に吉沢製紙工場を設立して、桜花紙を製造した。大正12年同業社と共同で設立の玉川製紙産業組合の組合長となった。

若尾幾造 わかお いくぞう (1857-1928)

甲斐国(山梨県)に生まれる。生糸売込商初代幾造の長男。幼名隣之助のち林平。家業を助け、生糸貿易業に従事した。明治29年父の死で家督相続し、幾造を襲名。同32年横浜若尾銀行を設立、神奈川・埼玉両県に製糸場・生繭乾燥場を経営し、さらに多くの会社重役を兼ね、横浜財界でも活躍した。なお、日本鋼管設立の際に設立発起人となり、田島村渡田(川崎区)地先に造成した若尾新田を工場敷地に提供した。

若林忠志 わかばやし ただし (1908-1965)

米国ハワイに生まれる。昭和3年スタクトン日本人野球団の役手で来日した。翌年法政大学に入学し、主戦投手として活躍、3たびリーグ優勝を果たす。卒業後川崎のコロムビアに入社、都市対抗野球に出場して大会優秀投手に選出された。のちプロ野球に入リ、「七色の変化球」といわれた多彩な投球で活躍した。野球殿堂に入る。

和田翁助 わだ おうすけ (生没年不詳)

江戸時代後期の上野川村(宮前区)影向寺領の名主。鎌倉武士和田義盛の子孫という。