ゆかりの人物・団体 【さ行】

川崎ゆかりの人物・団体の紹介

川崎市域で生まれた、育った、暮らしたなど、川崎市にゆかりのある人物を紹介しています。人物名をクリックすると、人物プロフィールや関連資料などが表示されます。

斎藤丑之進 さいとう うしのしん (1859-1941)

江戸時代小向村(幸区)の名主を代々務めた旧家の生まれ。大正2年御幸村(幸区・中原区)村長に就任し、村政発展に努めた。祖先は斎藤大学助光義という。墓は幸区幸町の円真寺にある。

斎藤幸一郎 さいとう こういちろう (1880-1962)

栃木県生まれ。小学校教員ののち、医科系学校に学び、大正12年大師町(川崎区)で医院を開業した。翌年市会議員に当選し、昭和6年に第4代市会議長、同9年に第6代市会議長に就任した。また、医師会では県の理事を務めている。墓は川崎区大師本町の明長寺にある。

斎藤又蔵 さいとうまたぞう (1906-1976)

大師河原村(川崎区)の出身。昭和43年気管支喘息となり、同45年結成の川崎公害病友の会初代会長に推挙された。病躯に鞭打って、死の直前まで公害をなくす運動に挺身し、川崎市の公害規制促進に寄与した。

斎藤三友 さいとう みつとも (生年不詳-1654)

江戸時代前期の旗本。溝口~北見方(高津区)・宮内~上丸子村(中原区)などの内に3000石を加増されて、計5000石を知行した。

斎藤元近 さいとう もとちか (1884-1951)

津久井郡日連村(神奈川県相模原市緑区)の生まれ。神奈川師範学校を卒業。足柄上郡や県の視学官を務めたのち、大正9~12年田島小学校校長を務め、工業化する地域の教育改善に尽力した。

佐伯馬之助 さえき うまのすけ (生没年不詳)

江戸時代前期上菅村(多摩区)一帯の代官を務めたといぅ。また同村の安立寺を開基した。

榊原職直 さかきばら もとなお (生年不詳-1648)

江戸時代前期の旗本。大坂冬の陣の功で、鹿島田村(幸区)に500石を知行された。長崎奉行を務め、島原の乱では目付として参陣した。

相良利夫 さがら としお (1846-1882)

和歌山県士族の家に生まれる。江戸へ出て、東西の学術をきわめ、 東京府布田(東京都調布市)で洋学研究会の教師を務めた。明治7年長尾村(多摩区・宮前区)に招かれて、成始学校、経綸学校で教鞭を執った。門下生から民権活動家が輩出した。

佐々木虎三郎 ささきとら さぶろう (1903-1961)

秋田県出身。上京して逓信事務員となったが、のち労働運動や消費組合運動に専念した。昭和3年から東京製綱の消費組合常任理事を務めた。終戦直後日本消費組合同盟に参画し、川崎生活協同組合初代理事長や同組合県連合会長などを務め、戦後の生協運動発展の基盤を築いた。川崎市会議員にも当選している。

佐々木泰綱 ささき やすつな (生没年不詳)

鎌倉時代後期の武将。弘長3年の「武州河崎庄内勝福寺鐘銘」に大旦那としてその名が刻まれた。川崎荘を支配した下司であったとされる。なお、勝幅寺は川崎区砂子の宗三寺にあたるとの説がある。

佐藤栄秀 さとう えいしゆう (1880-1959)

和歌山県の生まれ。明冶44年から川崎町で医院を開業した。最初の市会議員に当選し、市会副議長にも選出された。昭和3年には第2代市会議長となった。医業では、県医師会代議員を務め、逓信・内務・鉄道の各省嘱託医なども兼務した。

佐藤惣之助 さとう そうのすけ (1890-1942)

佐藤泰然 さとう たいぜん (1804-1872)

北見方村(高津区)の母方の実家で生まれる。江戸と長崎でオランダ医学を学び、頭角を現す。天保14年下総国佐倉(千葉県佐倉市)へ行き、順天堂を創設した。のち横浜に移住し、ヘボンやシモンズらと交流があった。

佐橋内蔵之助佳純 さはし くらのすけよしずみ (生没年不詳)

江戸時代前期の旗本。知行地の久末村(高津区)で年貢増徴を企て、村民から直訴を受けた。代表らを処刑したが、それを供養したという義民地蔵が高津区久末の妙法寺に残る。

佐保田定右衛門 さほだ さだえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の菅村(多摩区)名主。先祖は当地地頭の佐保田山城守政春といい、代々下菅の名主を世襲した。

さん (1784-1813)

江戸時代後期の細山村(麻生区)百姓の娘で、孝女。中風の父をよく看病しながら、田畑耕作や貨稼ぎに精励し、朝な夕なに孝養を尽くしたので、地頭から褒賞された。

島田兵蔵 しまだ ひょうぞう (1891-1967)

川崎町小土呂(川崎区)のわらじ屋と呼ばれた農家の次男に生まれる。芝浦製作所、京浜電力、出雲電気会社、中国配電会社などを経て、昭和26年発足した中国電力会社社長に就任し、電力事業に半生を捧げた。同時に日本学術会議会員を4期務めた。65歳で工学博士の学位を得るなどの学者肌で、俳句・書道・囲碁将棋・弓道・撞球・ゴルフ・釣りなど多彩な趣味もこなした。

島田武助 しまだ ぶすけ (生没年不詳)

川崎町新宿(川崎区)の生まれ。呉服商を営み、川崎町の町会議員となり、明治32年には町長に就任した。

志村弥五右衛門 しむら やごえもん (生念不詳-1848)

江戸時代後期の王禅寺村(麻生区)名主。養子に入り、文政期の増上寺領組合の存続運動で、中心的役割を果たした。天保の飢謹では窮民救済に奔走した。

秀月尼 しゅうげつに (生年不詳-1648)

江戸時代前期の人。菅村(多摩区)を知行した旗本中根平十郎正朝の母。登戸村(多摩区)長念寺の中興開基で、墓と慶安3年銘の自画像が同寺にある。

正田貞一郎 しょうだ ていいちろう (1870-1961)

輸入業正田作次郎の長男として横浜に生まれる。東京高等商業学校(一橋大学)卒業後、父の実家(群馬県館林)正田醤油会社に入る。明治33年機械製粉の館林製粉会社を創立して専務に就任。同40年には横浜の日清製粉を合併、その後大日本製粉・上毛製粉・両毛製粉などを吸収合併して日本の「製粉王」となった。昭和11年まで日清製粉の社長を続け、以後会長、相談役に。大正15年埋立地の大川町(川崎区)に操業した鶴見工場が、同社の主力工場となった。美智子上皇后の祖父

白石元治郎 しらいし もとじろう (1867-1945)

越後(新潟県)の生まれ。浅野総一郎の女婿。東洋汽船の支配人を経て、大正元年旧友今泉嘉一郎と日本鋼管を創立し、初代社長に就任した。のち浅野・森両コンツェルン数社の社長を兼ねた。浅野埋立地の白石町(川崎区)は、その姓をとったもの。

白井清三郎 しらい せいざぶろう (1833-1903)

幕末元治元年細山村(麻生区)で寺子屋真川堂を開く。学制後は村立学校の補助教員となった。俳号を東月と称し、宗匠として地域俳壇で活躍した。墓は麻生区細山の香林寺にある。

白井忠左衛門 しらい ちゅうざえもん (1830-1920)

中野島村(多摩区)の唐紙屋田村家の3男に生まれた。安政2年五反田村(多摩区)白井家に養子に入り、和唐紙の製造を始めた。玉泉堂と名乗り、幕末には地元の製品を買い集めて横浜の買易商に売り、巨利を得たという。

白根鼎三 しらね ていぞう (1850-1918)

山口県出身。明治10年神奈川県第5課御用掛となり、以後主に検疫関係の事務を担当する。鎌倉郡長ののち、明治31年から33年まで橘樹郡(川崎市・横浜市)の郡長を務めた。のち、中郡長に転じ、大正4年に大磯町長に就任した。

新右衛門 しんえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の野川村(宮前区)増上寺御霊屋領名主。先祖は亀谷玄蕃吉家という。

新荘吉生 しんじょう よしお (1873-1921)

山口県岩国町(岩国市)の生まれ。東京帝大理科大学卒業。明治32年東京電気会社(のち東芝)に入社。同42年に創設された川崎工場の初代工業部長となった。労使協調の労働組合運動に理解を示し、友愛会の育成に力を貸した。電球製造事業発展に寄与し、大正8年には同社社長に就任。人材養成と社員の福利増進に力を注いだ。

椙浦 秀鵞 すぎうら しゅうが (生没年不詳)

江戸時代後期の寺子屋師匠。弘化4年長尾村(宮前区・多摩区)で寺子屋松月堂を開いた。

鈴木久弥 すずき きゅうや (生没年不詳)

江戸時代後期の長尾村(宮前区・多摩区)名主。先祖は後北条氏の家臣であったという。

鈴木久弥 すずき きゅうや (1856-1942)

多摩郡上布田宿(東京都調布市)で名主役を務めた原家の次男に生まれ、長尾村(宮前区・多摩区)の旧家鈴木家に養子に入る。20数年間向丘村(宮前区)村会議員を務め、村政改革に尽くしたほか、自由民権運動にも加わった。日本製氷会社の重役も務めた。墓は多摩区長尾の妙楽寺にある。

鈴木慶蔵 すずき けいぞう (1826-1904)

溝の口村(高津区)の旅宿亀屋に生まれる。家業を継ぎ、開港後は蚕種紙の輪出に手を広げて成功する。民権家とも交流があり、明治19年の橘樹郡蚕糸組合の発足では、創立委員に選ばれた。国木田独歩作『忘れ得ぬ人々』の主人公大津弁二郎のモデルといわれる。

鈴木三郎助 すずき さぶろうすけ (1867-1931)

三浦郡堀之内村(神奈川県葉山町)の米穀洒類商の長男に生まれる。池田菊苗発明のグルタミン酸塩を成分とする新調味料(味の素)の製造を手掛け、鈴木製薬所を創立した。工場を逗子から川崎に移し、大正6年鈴木商店を設立して、のちの味の素株式会社の基礎を築いた。東信電気会社創設など電気事業にも進出する。墓は神奈川県三浦市の光徳寺にある。

鈴木重比 すずき しげちか (1606-1693)

江戸時代前期の旗本。下小田中村(中原区)などに400石を知行した。

鈴木七右衛門 すずき しちえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の溝の口村(高津区)名主。近くの久地村(高律区)にあった二ケ領用水分量樋の管理に当たった。安政4年の溝の口水騒動のおり、川崎領内の農民たちから屋敷を打ちこわされた。

鈴木庄三郎 すずき しょうざぶろう (1875-1941)

川崎宿(川崎区)の商家に生まれ、12歳で東京深川の材木商へ見習奉公に入る。明治26年18歳で8代目庄三郎を襲名して材木商を開業、川崎有数の巨商・鈴商木材の基礎を築いた。川崎町(川崎区)町会議員や市会議員にも選出されている。

鈴木全象 すずき ぜんぞう (1835-1907)

溝の口村(高津区)で和菓子の老舗大和屋に生まれる。浜田姓を妻の鈴木姓に改めた。家業を継ぎ、橘樹郡内でも有数の売上げをもつ菓子店にした。自由民権運動にも参加し、在村活動家として知られた。世界的な陶芸家の浜田庄司は長男である。墓は高津区溝口の宗隆寺にある。

鈴木忠治 すずき ちゅうじ (1875-1950)

三浦郡堀之内村(神奈川県葉山町)の生まれ。味の素創設者三郎助の弟。兄が進めた味の素製造事業に協力し、昭和6年兄の死去後、鈴木商店および東信電気会社の社長となった。同9年昭和酒造(のち三楽酒造)、昭和肥科、満州農産化学工業を創立。同15年には昭和電工社長に就任した。

鈴木直成 すずき なおなり (生年不詳-1887)

溝の口村(高津区)の豪農の長男。第5大区区長、中野島村外57か町村戸長総代を歴任する。橘樹郡(川崎市・横浜市)自由民権運動の指導者の一人であった。明治18年、前記57か町村の連合町村会の開設を橘樹郡長宛に上申した。墓は高津区溝口の宗隆寺にある。

鈴木宝水 すずき ほうすい (1756-1837)

江戸時代後期の俳人。溝の口村(高津区)の薬種商灰吹屋に生まれる。家業を継ぐが、徘諧を田川鳳朗に学ぶ。大山街道筋に芭蕉句碑を建立、『円座松之賦』を著わす。

鈴木能幸 すずき よしゆき (生没年不詳)

江戸時代後期の堀之内村(川崎区)山王社の神職。先祖は紀伊国熊野(和歌山県)の出身という。

陶山栄助 すやま えいすけ (生没年不詳)

江戸時代後期の小田村(川崎区)の内、旗本間宮庄五郎知行所の名主。先祖に陶山孝定がおリ、秀吉朱印状を与えられた村内山王社神職という。

諏訪左近頼久 すわ さこんよりひさ (生年不詳-1611)

近世初期の諏訪河原村(高津区)の開発者。信濃国(長野県)の武士諏訪安芸守頼忠の末孫という。後北条氏に仕えたが、主家滅亡後寺尾村小黒(横浜市鶴見区)に移住し、小黒を名乗った。のち多摩川のほとリに新墾の地を開いて居住し、村名を諏訪河原とした。

関ロツネ せきぐち つね (生没年不詳)

江戸時代後期の寺子屋師匠。文政6年久本村(高津区)に寺子屋昌花堂を開いた。

関根大仙 せきね たいせん (1902-1974)

群馬県下仁田の生まれ。浅草寺で得度し、昭和7年宮本町(川崎区)久遠寺の住職となった。日本大学、大正大学、駒沢大学などの教授を務めた。その間大学設置審議会委員、私立大学協会常務理事などを歴任。仏教史・仏教文化史が専門で、著書に『埋納経の研究』がある。市の文化財審議会委員も務めた。天台宗の大僧正に列する。

関山五郎右衛門慶定 せきやま ごろうえもんよしさだ (生年年不詳-1906)

宿河原村(多摩区)に生まれ、名主役を継ぐ。文政年間から養蚕を始め、寒暖計や湿度計を使用するなど養蚕技術の改良、普及に努め、『養蚕実験録』をまとめた。この書は文久3年に子の慶頼によって出版された。墓は多摩区宿河原の常照寺にある。

関山五郎右衛門慶頼 せきやま ごろうえもんよしより (生年不詳-1924)

宿河原村(多摩区)名主の子。幕末に父慶定が口述した『養蚕実験録』前後編を出版し、 明治5年その続編ともいうべき『養蚕秘事記』を刊行した。県下の蚕種総代人に任命されて蚕種改良に尽力し、父子2代養蚕振興に努めた。墓は多摩区宿河原の常照寺にある。

関山盛衆 せきやま せいしゅう (1873-1952)

宿河原村(多摩区)の農家元木家の4男に生まれ、養子に入る。幼名は佐吉。川崎で興した新興宗教・新明国上教の教祖。大正初年、火水日を心とする新明国上心が教祖の身体に降ったとされ、「宿河原の生き神様」として信仰を集めた。

関淑子 せき よしこ (1908-1935)

美術評論家の次女で、東京生まれ。津田英語塾を中退し社会運動に入る。未組織の婦人労働者に組合結成を働きかけた。川崎市で共産主義青年同盟の活動を行うが、しばしば検挙された。姉に声楽家関鑑子がいる。

添田知通 そえだ ともみち (1830-1896)

市場村(横浜市鶴見区)の名主家の長男に生まれる。幼名は藤蔵。19歳で家名の七郎右衛門を襲名し、川崎宿助郷総代・寄場組合総代に就任した。明治5年に県の吏員に登用され、同7年地租改正掛に抜擢されて改租事業に取り組んだ。のち県収税長となる。墓は幸区下平間の称名寺にある。

添田知義 そえだ ともよし (1854-1912)

市場村(横浜市鶴見区)名主で寄場組合総代を務めた知通の長男。名主・戸長・村用掛を経て、明治9年第4大区学区取締兼医務取締役となった。自由民権運動に加わり、民権結社橘樹郡親睦会では幹事を務める。のち県会議員、衆議院議員に当選した。晚年は多摩川河川改修運動に挺身した。墓は幸区下平間の称名寺にある。

曽木正明 そぎ まさあき (1911-1964)

福岡県に生まれる。立正大学高等師範科を卒業。昭和20年に市立高津高等女学校に赴任、市立住吉中教頭を経て、同26年市教育研究所に勤務し、市立中学校の国語科教育課程編成に従事した。のち市立渡田中・大師中などの校長を務めた。その間、市立中学校長会や県中学校長会の副会長に推された。