ゆかりの人物・団体 【あ行】

川崎ゆかりの人物・団体の紹介

川崎市域で生まれた、育った、暮らしたなど、川崎市にゆかりのある人物を紹介しています。人物名をクリックすると、人物プロフィールや関連資料などが表示されます。

愛波与平 あいば よへい (1883-1962)

栃木県鹿沼町の生まれ、東南アジアなどに渡航して語学研鑽に努め、外国商社員などを経たのち、川崎に在住し貿易製函事業をおこした。市議・県議などにも当選し、昭和8年には民政党県支部幹事長に就任した。市議時代には、水道委員、産業委員として活躍した。

青木喜市 あおき きいち (1897-1969)

山形県生まれ。大師町(川崎区)に移住して魚商を営み、魚商組合理事長や中瀬町内会長をながく務めた。昭和11年以来市会議員に7回当選し、民生委員・選挙管理委員長・決算特別委員長として活躍した。2期にわたり市会議長も努めた。墓は高津区の縁ケ丘霊園にある。

青木正太郎 あおき しょうたろう (1854-1932)

南多摩郡堺村(東京都町田市)の生まれ。明治33年創立の江ノ島電鉄社長に就任。同43年以後2度にわたり京浜電鉄社長(京浜急行)を努め、六郷川鉄橋敷設や川崎住宅地内への乗合自動車営業開始などを手がけた。県会議員、衆議院議員にも選出された。川崎区の川崎大師境内に頌徳碑がある。

青木豊十郎 あおき とよじゅうろう (1853-1921)

大島村(川崎区)に生まれる。大島村戸長を経て、明治23年田島村(川崎区)村長に就任した。同28年県会識員、同32年橘樹郡(川崎市・横浜市)郡会議員に選任。民権運動にも参加した。明治30年に海浜埋め立てを主導し、青木新田(川崎区浅野町)を造成する。墓は川崎区大島の西蓮庵にある。

青戸四郎右衛門 あおと しろうえもん (1846-1922)

王禅寺村(麻生区)に生まれ、南嶺堂塾に学ぶ。幼名桂之助。幕末下麻生村(麻生区)の不動院などで寺子屋青戸塾を開いた。学制施行以後下麻生の小学校教師として20年余教鞭をとつた。教え子らが建立の報恩碑がある。

秋元喜四郎 あきもと きしろう (1866-1934)

上平間村(中原区)名主の家に生まれる。御幸村(幸区・中原区)村会議員を経て、明治40年橘樹郡(川崎市・横浜市)郡会議員となった。大正3年のアミガサ事件など多摩川築堤運動の中心的指導者として活躍した。大正8年には多摩川砂利鉄道(のちJR南武線)設立にも中心人物として参加した。墓は中原区上平間の法田寺に。

浅井嘉七郎 あさい かしちろう (生年不詳-1885)

川崎宿新宿(川崎区)の生まれ。号は長栄。祖父浅井忠良創設の寺子屋玉淵堂を父玉山から受け継ぎ、250人余の教え子を出した。明治6年学制で設立の川崎学舎の教員に迎えられ、のち改称された川崎学校の初代校長となった。

浅井忠良 あさい ただよし (生年不詳-1813)

川崎宿(川崎区)に生まれる。号を常山と称した。関思恭に学び' 太田南畝ら文人とも交遊。天明期に川崎地域最初の寺子屋となった玉淵堂を創設し、その師匠を努めた。書家でもあった。墓は川崎区本町の一行寺にある。

浅野総一郎 あさの そういちろう (1848-1930)

朝比奈義一 あさひな ぎいち (1901-1963)

山梨県出身。神奈川県師範学校卒業。大師小、渡田小、中原小などをへて、戦後上丸子小の初代校長に就任した。市内国語教育研究会の初代会長としても活躍。退任後、市立中原公民館長や市立中央公民館長も努めた。

麻生理純 あそう まさずみ (1901-1970)

千葉県山武町の生まれ。川崎丸子園に就職後、青果市場内に丸子青果会社を創立。さらに山手商会(山手機器工業)を設立して、社長を兼務した。戦後市会議員に当選し、内政副委員長、予算特別委員長として活躍し、第14代の市会議長を努めた。墓は高津区の縁ケ丘霊園に。

阿部益斎 あべ えきさい (生年不詳-1854)

陸奥国閉伊郡(岩手県)出身の漢方医で、号を鯨山と称した。江戸に出で医学を修め、登戸村(多摩区)の光明院で開業した。地域医療のかたわら、庶民教育にもたずさわった。光明院には教え子ら建立の記念碑がある。

安部幸兵衛 あべ こうべい (1847-1919)

富山県の出身。横浜にきて、海産物や砂糖・小麦・外米の取引に従事したが、明治17年増田屋安部幸兵衛商店を創立した。同28年には横浜舶来砂糖貿易取引組合を組織し、組合長となった。同38年に増田増蔵と組んで、川崎で最初の近代工場となった横浜精糖会社(のち明治製糖)を創立した。墓は神奈川区の善竜寺にある。

阿部容斎 あべ ようさい (1833-1888)

登戸村(多寧区)の生まれ。父益斎の跡を継ぎ、同村で地域医寮に従事した。漢詩をたしなみ、自由民権家たちとの交流もあつた。墓は宮前区菅生の秋月院にある。

安西義一 あんざい ぎいち (1890-1963)

高座郡大沢村(神奈川県相模原市)に生まれる。神奈川県師範学校卒業後小学校訓導となり、座間郡や高座郡の小学校長などを歴任して、昭和12年から20年まで市立川中島(川崎区)小学校長・併設青年学校長を努めた。

安藤有山 あんどう うざん (生没年不詳)

江戸時代後期の寺子屋師匠。嘉永年間に下平間村(幸区)で寺子屋を開いた。

安藤飛禪 あんどう ひだ (生没年不詳)

江戸時代後期の予母口村(高津区)大工。天保年聞に伯家神道を受け継ぐ白川家に入門し、神拝式・冠絹斎服の免許を取得した。

安藤平作 あんどう へいさく (生没年不詳)

江戸時代後期の小杉村(中原区)名主。祖先は後北条氏の家臣で、代々名主役を受け継いできた。

安藤政兼 あんどう まさかね (1898-1970)

千葉県出身。神奈川県師範学校卒業後、市域の小学校訓導や青年学校長を歴任して、戦後第三女子商業学校(市立商業高校)校長、生田小・御幸小の校長などを努めた。退職後、市立青少年補導連盟主事、市立公民館長、市立市民館長、横浜家庭裁判所調査官などに就いた。

飯塚重信 いいづか しげのぶ (1891-1988)

柿生村栗木(麻生区)の農家の長男。柿生村役場の書記、助役を経て、昭和12年柿生村外一ケ村(麻生区)の組合長(村長)となり、川崎市への合併に奔走した。合併後初代市役所柿生出張所長に就任した。晩年は老人クラブの運動に献身。柿生の生き字引といわれた。

飯室昌恒 いいむろ まさつね (生年不詳-1618)

江戸時代前期の旗本。甲斐(山梨県)武田の家臣であったが、天正10年徳川家康に仕え、小田村(川崎区)などに250石の知行地を給された。

五十嵐米八郎 いがらし よねはちろう (1884-1953)

新潟県村松町の生まれ。東京師範学校卒業。横浜市や群馬県などで高校教員や小学校長を努めたのち、大正12年川崎小校長に着任した。のち市立実科高等女学校(市立川崎高校)長も兼務。昭和2年県視学官となり、その後県内の各女学校長を歴任して、同10年から16年まで県立川崎中学校(県立川崎高校)長を努めた。

池上幸豊 いけがみ ゆきとよ (1718-1798)

池上幸広 いけがみ ゆきひろ (1583-1650)

荏原郡千束郷(東京都大田区)に生まれ、通称を太郎右衛門といった。鎌倉幕府の番匠池上宗仲の末裔。元和年間に、家屋敷地・山林など一切を他上本門寺に寄進し、多摩川河口部へ移住、'海浜寄洲を開拓して大師河原村(川崎区)を開き、名主を努めた。寛永年間には隣接して、稲荷新田を開発した。墓は川崎区大師駅前の池上家内墓池言坊にある。

石井郁之助 いしい いくのすけ (1877-1953)

古川村(幸区)に生まれ、御幸村(幸区・中原区)村会議員となる。川崎市制施行では御幸村の合併委員長を努めた。昭和3年市会議員に当選し、のち第3代市会議長に推された。耕地整理委員長を努めるなど地域の産業振興に貢献した。墓は幸区下平間の称名寺にある。

石井新八郎 いしい しんぱちろう (生没年不詳)

江戸後期の寺子屋師匠。弘化年間古川村(幸区)に寺子屋を開いた。

石谷貞清 いしがや さだきよ (生年不詳-1672)

江戸時代前期の旗本。慶長年間徳川秀忠に仕え、大番に列する。寬永9年徒頭になり、六郷川洪水を巡察した。大坂の陣・島原の乱に参陣し、のち江戸町奉行となる。

石坂泰三 いしざか たいぞう (1886-1975)

東京府牛込(東京都新宿区)の生まれ。東京帝国大学法科を卒業後、逓信省に入る。第一生命に移り、昭和13年同社社長に昇任。戦後公職追放となるが、解除後の同24年東芝社長に迎えられ、同社の経営再建に敏腕を奮った。その手腕を買われ、同31年経済団体連合会第2代会長に就任した。

石原健三 いしはら けんぞう (1864-1936)

岡山県出身。東京帝国大学法科を卒業後司法省に入る。山梨、千葉、高知、静岡、北海道、愛知の県知事や長官を歴任して、大正3年神奈川県知事に就任した。在任期間は1年数か月に過ぎなかったが、4度も暴風雨に見舞われ、多摩川沿岸住民の大挙陳情(アミガサ事件)を受けた。また、川崎方面への工場進出と重なり、その対応に追われた。

石渡四郎兵衛 いしわた しろべえ (生没年不詳)

江戸時代前期の稲荷新田村(川崎区)の開発農民で、寛永年間に甥の小島六郎左衛門とともに大師河原地先の寄州を開拓した。

井田赤城 いだ せきじょう (1768-1842)

長尾村(宮前区・多摩区)に生まれ、歌人三田菅子の父正章に師事する。江戸に出て儒学を修め、のち南部藩ほか諸大名や旗本の侍講を努めた。若いころ馬糞を売って書物を買うなど、苦学して励んだという。

井田太郎兵衡 いだ たろべえ (生没年不詳)

江戸時代後期の長尾村(宮前区・多摩区)名主。先祖は後北条氏に仕えた家臣高橋帯刀といい、同氏滅亡後は当地に土着して井田氏を名乗った。

伊丹勝信 いたみ かつのぶ (生年不詳-1642)

江戸時代前期の旗本。始め勘定方を努め、のち蔵役に替わる。寬永初め小田村(川崎区)に所領を宛行われた。

市岡定次 いちおか さだつぐ (生年不詳-1661)

江戸時代前期の旗本。慶長13年より徳川秀忠に仕えた。大坂の陣に従軍した。五反田村(多摩区)に知行地を移された。

市川郁 いちかわ い< (1899-1969)

中原村新城(中原区)の旧家に生まれる。父喜一は村長。府立高等園芸学校卒業。中原町会議員を経て'昭和8年から3期、市会議員を努めた。同23年川崎農業協同組合長に就任。また、自動車ポンプの購人や消防器具置き場の新設などに努め、神奈川県消防協会副会長に就任し、消防力の充実に尽力した。同24年からは連続5回県会議員に当選し、その間副議長を努めた。

井手七郎左衛門 いでしちろうざえもん (生没年不詳)

御先手頭新見新右衛門組の同心。江戸時代初期小杉村(中原区)の中原街道沿いに小杉御殿が設けられたが、寛永17年その御殿番に任じられた。同時に多摩川筋川船改役も努めた。

井出泰文 いで やすぶみ (1887-1959)

宿河原村(多摩区)の城所駒太郎の次男。稲田村登戸(多摩区)の旧家井出家の養子となる。川崎市域や横浜市内の小学校教員を歴任したのち、大正10年第二稲田小校長に就任した。以後旭町小・幸町小の校長を努めた。墓は多摩区登戸の善立寺にある。

井出喜重 いで よししげ (1854-1914)

登戸村(多摩区)で筏会所を努めた旧家に生まれた。戸長や稲田村(多摩区}村長を努めたのち、明治32年橘樹郡(川崎市・横浜市)郡会議員に選出された。民権運動に身を投じ、望嶽楼雅流の俳号で地域俳壇で活躍した。

伊藤葦天 いとう いてん (1883-1974)

登戸村|(多摩区)で興った丸山教教祖伊藤六郎兵衛の係、名は平質。明治41年父国義の後を継いで丸山教3代目教主となり、六郎兵衛を襲名した。大震災で倒壊した大教殿を復興し、教線を広めた。登戸近在の神社数社の社掌も兼務し、終戦直後神奈川県神社庁の創立では、参与に就任した。葦天と号し、句集や画集、郷土史の著作を残した。第1回川崎市文化賞を受賞。墓は多摩区登戸の丸山教本庁内墓地にある。

伊藤喜代司 いとう きよし (1903-不明)

千葉県佐原の生まれ。大正12年乗合自動車による輪送に着眼して、大島四ツ角(川崎区)に大島自動車商会を設立した。同14年には営業所と本社を川崎駅前に移転し、昭和2年川崎乗合自動車会社へと発展させ、銀バスの名で親しまれた。同9年には川崎鶴見臨港バス会社に合併させ、川崎バス交通網の基礎を築いた。合併後は同杜を離れ、ハス関連会社の役員などを歴任。戦後はハイヤー・タクシーの川崎自動車会社を設立して社長となる。

伊藤春男 いとう はるお (1907-1957)

北海道網走の生まれ。広島高等師範学校を卒業後、東京の諸学校に努めたのち、昭和12年市立工業学校に着任した。市立高津高等女学校(私立高津高校)教頭を経て、同22年住吉中学校長となり、情操豊かな人間形成をめざした特色ある校風の樹立に尽力した。

伊東匡義 いとう まさよし (1867-1925)

三浦郡木古庭(神奈川県葉山町)に生まれる。慶応義塾卒業後、郡役所や県の吏員を努めたのち、三浦郡長を経て、大正12年橘樹郡(川崎市・横浜市)郡長に就住した。墓は葉山町の本円寺にある。

伊藤六郎兵衛 いとう ろくろべい (1829-1894)

登戸村(多摩区)の農家の次男。14才で富士信仰に入り、のち同村地主伊藤家の婿養子になった。明治6年丸山教と称する山岳信仰系の創唱宗教を開き、「登戸の生き神行者」として信者を集めた。述作に『御法御調』がある。墓は多摩区登戸の丸山教本庁内墓地にある。

稲波三右衛門 いなば さんえもん (生没年不詳)

江戸時代後期の川崎宿(川崎区)の町人で、名は慎成。寛政年間から幕末まで川崎宿名主を努めた。嘉永6年同宿中村家の庭に建立された仮山碑に詩と序文を残した。

井上平七 いのうえ へえしち (生没年不詳)

上麻生村(麻生区)の人。近世前期に市域北部から相模国東部(神奈川県)にかけてあった前田家鷹場の鳥見役人を努めた。

井上英男 いのうえ ひでお (1887-没年不詳)

栃木県佐久山町で出生。東京高等農学校を卒業し、神奈川県庁に奉職。橘樹郡(川崎市・横浜市)役所の農林技師として郡下の農政に従事した。のち県農務課に移り、昭和恐慌下の生田村細山部落(麻生区)を県農事特別奨励地に指定して、モデル農村づくりを指導し、全国に知られた。

揖斐政景 いひ まさかげ (生年不詳-1641)

江戸,前期の旗本で、小田村(川崎区)に200石の加増をうけた。元和7年小田原の町奉行に就任、代官職も兼務して、900石余の知行取りとなった。

今泉嘉一郎 いまいずみ かいちろう (1867-1941)

群馬県生まれ。ドイツ留学後官営八幡製鉄所に入り、創業期の発展に寄与した。大正元年日本鋼管を創立し、民間鉄鋼技術の開拓者となった。日本鉄鋼協会会長、衆議院議員、日刊工業新聞社長などを歴任した。著書に『鉄屑集』|上・下巻がある。

入間川五右衛門 いるまがわ ごえもん (生没年不詳)

大師河原村(川崎区)に生まれた江戸時代中期の力士。明長寺の石観音堂に、延享2年本人が願主となって奉納した絵馬が残されている。

岩崎次郎吉 いわさき じろきち (1866-1944)

長尾村(宮前区・多摩区)の鈴木家に生まれた。溝ノ口村(高津区)の岩崎家に養子入りして酒造業を興し、岩滝の銘柄で販路を伸ばした。明治38年高津村(高津区)助役、翌年村長となった。橘樹郡(川崎市・横浜市)郡会議員にも選任された。また県酒造組合川崎支部長や高津信用組合長も努めている。墓は高津区溝口の宗隆寺にある。

岩田道之助 いわた みちのすけ (生年不詳-1894)

川崎宿砂子(川崎区)の商家に生まれる。川崎駅戸長を経て明治14年から22年まで県会議^を努めた。その間民権政社橘樹郡親睦会を結成、神奈川県同好会幹事を経て改進党に入党した。大坂屋の屋号で雑貨商を営むが、晚年に海外貿易に手を出して失敗する。墓は鶴見区矢向の最願寺にある。

上田久七 うえだ きゅうしち (1901-1948)

高津村溝ノロ(高津区)の旧家出身で九人兄弟の一人。村役場書記や代用教員を勤めるかたわら、高津村青年団溝ノ口演劇部で農村演劇活動を行い、全国から注目された。墓は高津区溝口の宗隆寺にある。

上田安左衛門 うえだ やすざえもん (生没年不詳)

溝の口村(高津区)生まれ。農業のかたわら、寬政12年に醤油醸造業を始めた。屋号を稲毛屋といい、安政年間には江戸市中の醬油株仲問で指導的役割を果たすほどになった。

浮岳堯文 うきおか ぎょうもん (1869-1920)

神代村(東京都調布市)の生まれ。同村の深大寺で得度し、早大英語科・文学科を卒業。明治30年稲田村菅(多摩区)の法泉寺住職に就任し、同寺の復興に当たった。私立成志学校設け、英語・漢文・習字などを教え、多くの人材を育てた。

薄井コト うすいこと (1896-1962)

水戸市(茨城県)の医師の娘。小学校教員を経て、昭和23年川崎洋裁女学院、同32年梅苑幼稚園を創立した。市婦人団体連合会や同団体件連絡協議会の会長職に就任し、電源開発愛国10円貯蓄運動に成果を上げた。墓は川崎区本町の一行寺にある。

碓井正平 うすい しょうへい (1891-1944)

横浜生まれまれ、神奈川師範学校卒業後、付属小学校訓導を経て市立田島小学校(川崎区)へ。田島体験学校の主席訓導として、昭和4年第1回田島体験教育研究発表を行った。

臼井義胤 うすい よしたね (1843-1929)

都筑郡下麻生村(麻生区)の農家碓井家の長男に生まれる。幼名は福太郎。慕末のころ江戸麻布笄町(東京都港区)の士族鏑木家の養子となり、鏑木義胤と改名。のち鏑木家の実家で廃絶の臼井家を再興して、臼井姓を名乗った。骨黃品などの売買でに富を得て、大地主となったという。明治33年郷里の柿生村に5000円を寄付したが、うち2000円で高等小学校が建設された。義胤高等小学校と命名され、昭和16年の柿生国民学校改称まで続いた。麻生区下麻生の市立柿生中学校校庭に、頌徳碑がある。

                                               

江辺清夫 えべ きよお (1895-1950)

山形県米沢の出身。逓信省為替貯金局をふりだしに各県を転勤し、島根・福島両県の知事、京都市第一助役を経て、昭和19年官選地後の川崎市長に就任した。

大河内正勝 おおこうち まさかつ (生年不詳-1640)

江戸時代前期の旗本。文禄三年に家康に仕え、目付役を努めた。長尾村(宮前区・多摩区)内に250石の知行をうけたが、のち長崎奉行に進むなどして、2000石の旗本となる。

大竹正吉 おおたけ まさよし (生年不詳-1635)

慶長11年家康に仕えた旗本で、大番に列する。上小田中村(中原区)に220石の知行をうけ、のち材木奉行となった。

太田東海 おおた とうかい (1829-1875)

溝の口村(高津区)の医師道一の長男に生まれる。幕末大槻俊斎について蘭医学を学ぶ。お玉ケ池種痘所(のち西洋医学所・東京大学医学部)の設立社中に参加した。明治初年溝の口寄場組合村々の住民に、父道一と共に種痘を実施した。墓は高津区溝□の宗隆寺にある。

太田道灌 おおた どうかん (1432-1486)

相模国(神奈川県)に生まれる。扇谷上杉家の家臣太田資清の子で、幼名は鶴千代。元服して資長を名乗る。康正元年に家督を継ぎ、翌年より江戸築城に着手。主家上杉家の執事を努めた。山内上杉家の家臣長尾景春勢としばしば対陣し、市域では小沢城(多摩区)や丸子城(中原区)を攻略した。加瀬山(幸区)に築城を企図し、夢見が悪くて断念したため、夢見ケ崎(幸区)の地名を生んだとの故事を残す。幼時から鎌倉五山に入って学問を修め、詩歌に親しんだ。

太田道一 おおた みちかず (1798-1875)

下作延村(高津区)出身の医師で、良海と号した。江戸へ出て手塚良仙や大槻俊斎から蘭医学を学び、溝の口村(高津区)に移り住んで開業した。種痘の普及に努めるなど地域医療に貢献した。

大貫晶川 おおぬき しょうせん (1887-1912)

二子村(高津区)の商家の次男に生まれる。岡本かの子の実兄で、本名を雪之助といった。学生時代から『新詩社』同人となり、自伝的小説などを発表した。谷崎潤一郎らと第2次『新思潮』を発刊して、創作活動を続けたが・急性丹毒で早逝した。墓は高津区二子の光明寺に。

大場晴重 おおば はるしげ (1901-1960)

山梨県出身で、旧姓が清水。中原町宮内(中原区)の大場家に婿養子に入る。神奈川県師範学校卒業後、橘樹郡(川崎市・横浜市)・川崎市の小学校訓導・教頭・校長を歴任した。市立玉川国民学校校長のとき、集団疎開や戦災を受けた校舎の復興に努めた。戦後は市立小学校長会の副会長として、勤務評定問題の解決などに尽力した。

岡重孝 おか しげたか (1847-1920)

久本村(高津区)の旧家に生まれ、漢方医岡家の養子となる。戸塚(神奈川県)の葛野良沖の下で漢方医学を修め、養父の死後家業を継いだ。家伝の火傷の秘薬が評判となった。民権運動にも参加。明治20年溝ノロ村(高津区)戸長、 同32年橘樹郡(川崎市・横浜市)郡会議員となり、郡会副議長も努めた。墓は高津区久本の大蓮寺にある。

岡本かの子 おかもと かのこ (1889-1939)

岡本伝之助 おかもと でんのすけ (1896-1982)

横須賀町(横須賀市)の商家の長男。父伝兵衛創業の雑貨屋(呉服店)を受け継ぎ、洋品・雑貨の新店舗に拡充し、昭和3年には横須賀市大滝町に大型店舗を新築してさいか屋(百貨店)へと発展させ、社長となった。同31年川崎駅前にも川崎・さいか屋を出店し、川崎有数のデパートにした。横須賀市長や衆議院議員も努めた。

小川松五郎 おがわ まつごろう (生没年不詳)

明治5年鉄道開通のころ、川崎停車場前で川崎大師参詣者を対象に人力車営業を開業した。腕章に達磨の図柄を施したため、だるま組と呼ばれ、明治29年当時、車数が160台に増えたという。大師電気鉄道開通に際しては、猛烈な反対運動を展開した。

小杵 おき (生没年不詳)

『日本書紀』安閑記に登場する古墳時代南武蔵の豪族。武蔵国造の地位を同族の笠原直使主と争ったが、討ち滅ぼされ、領有地を没収されたという。

奧村喜三郎 おくむら きさぶろう (生没年不詳)

江戸時代後期の増上寺領代官で、西洋流測景家。高野長英に師事し、伊能忠敬、司馬江漢らと交流があった。文化文政期の増上寺領改革に携わり、市域の領民から信頼された。

刑部直国当 おさかべのあたいくにま (生没年不詳)

奈良時代橘樹郡(川崎市・横浜市)の戸主。正倉院御物中の「調庸布墨書」に白布貢納の件が記されている。

小沢小太郎重政 おざわ こたろうしげまさ (生没年不詳)

鎌倉時代初期の武士。源頼朝の重臣稲毛重成の子息で、小沢郷(多摩区)を領有して、小沢氏を称した。

小幡正勝 おばた まさかつ (生年不詳-1702)

江戸時代前期の旗本。小田村(川崎区)などに180石を知行された。小普請となり、延宝2年藏米20俵を加増された。

小幡正俊 おばた まさとし (生年不祥-1642)

江戸時代前期の旗本。元後北条氏の家臣で、天正19年家康に仕え、小田村(川崎区)蟹ケ谷村(高津区)などに280石を知行された。